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『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』-半世紀の想い出その2

 小学生の頃、生まれて初めて買ったLPレコード『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』

 親友の家で初めて聴いた時はとんでもなく感動したものですが、親戚のお兄ちゃんにレコードから録音してもらったカセットテープを聴いた時は、同等の感動は得られませんでした。
 もちろんどの曲も素晴らしい曲で、『序曲』の壮大な盛り上がりの部分や『誕生』でヤマトのテーマに至るまでの軽快なメロディなど、何度も繰り返し聴き続けていました。
 ただ、初めて聴いた時のあの衝撃的な感動がどの部分だったのかも忘れていたある時。

 それまでイヤホンといえば片耳だけの安物でしたが、何かの機会に初めて両耳のイヤホンを経験しました。
 そうかそうか、両耳だと左右から音が分かれて聞こえるのか……と気づき(この時初めてモノラルとステレオの違いを知った)、あの『明日への希望 ~夢・ロマン・冒険心~』後半を聴いた時……

「これだ!!」と飛び上がらんばかりの衝撃が甦ったのです。

      *      *      *

『明日への希望 ~夢・ロマン・冒険心~』の後半は、

 ララーラララー、ラララララー……♪

というコーラスが何度か繰り返されます。
 さてここからは音楽的知識もないのであまりうまく説明できませんが、ステレオイヤホンによって改めて気づいたのは……

 後半部分、「ララーラララー……」のコーラスはやや控えめな男声で始まります。
 このパートの最後、

 ララーララ ラララララー♪

は男声コーラスによる旋律が下がって終わります。
 モノラルでは男声コーラスに紛れて聞き取りにくいのですが、バックではポーン、ポーンとエレキギターでメロディが奏でられています。このメロディ、男声コーラスが下がって終わるのに対して、上がって終わるんですね。
 こういう書き方でお分かりいただけるかどうか……
男声が

 ララーララ ラララララー

に対して、バックのエレキギターは

 ララーララ ラララララー

と上がり調子で終わるのです。(エレキギターは当然「ラララ―」ではないですが比較ということで ^^;)
 この後は女声コーラスがメインとなり、最後は下がって終わりますが、そのバックではオーケストラの演奏が、先ほどのエレキギターと同じ旋律を奏で、上がって終わります。
 続くパートではバックに男声コーラスも加わりますが、メインの女声コーラスが下がって終わる時、今度はバックの男声コーラスが上がって終わっています。これもステレオイヤホンでないと気付きませんでした。

 単に同じメロディが繰り返されているのではなく、高低の異なる旋律をコーラスや楽器がそれぞれ奏で、それらが組み合わされることによって生み出される美しさ。そしてパートごとにその組み合わせが変わりながらも、繰り返しながら盛り上がっていく壮大さ。

 親友の家で初めて聴いた時は、たまたまバックの音が聞こえやすい方のスピーカーの前にいたのだと思います。
 親戚のお兄ちゃんに録音してもらったカセットテープは確かにステレオだったのですが、当時自宅で持っていたラジカセはスピーカーが一つしかありませんでした。モノラルだとメインの主旋律の方が大きく、バックの音はあまり聴き取れません(当時だけでなく今でも、PCの外部スピーカーで聴くと同じことで、ステレオイヤホンでないと聴き取れませんね)。だからステレオイヤホンを手にするまで、バックの旋律まで意識した組み合わせの美しさに気付かなかったのです。

 このような技法というか表現というか、何か呼び方があるのか、あるなら何と呼ぶのかは分かりません。ただ子供心に、音楽といえば主旋律だけを追っていたのが、複数の旋律や演奏の重なりによって生み出される美しさ、壮大さに圧倒されたのでした。
 繰り返されるに伴ってだんだん盛り上がっていく過程はラベルの『ボレロ』のような力強さがあり、さらに男声が「ラララララー⤴」と上がって終わるのが、文字通り「高らかに歌い上げる」といった感じでものすごく気に入り、この個所も何度も繰り返し聞いていました。
 男声コーラスと女声コーラスのハーモニーは、ベートーヴェン『合唱』の二重フーガにも似た荘厳ささえ感じます。

 そんなこんなで、もし「すべての音楽の中でいちばん好きな曲は何か?」と聞かれれば、まずこの『明日への希望 ~夢・ロマン・冒険心~』を挙げたい……のですが、なかなか知っている方がおられないので、詳しく説明できる場合に限られますが(^^;)

交響組曲 宇宙戦艦ヤマト(1977)

 そしてこの曲を含む『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』が、その後の音楽の好み全体を決定づけることになります。
 さらに続きます。

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『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』-半世紀の想い出 その1

 このタイトルから若い方はリメイク版の『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト2202』のことと思うかもしれませんが、そちらではなくてオリジナルの『宇宙戦艦ヤマト』から1977年に生まれたアルバムです。
Wikipediaによれば、「『宇宙戦艦ヤマト』のBGMをオーケストラ向けに再編曲・再編成したインストゥルメンタル・アルバム。1977年12月25日にLPレコード、カセットで、日本コロムビアより発売」

交響組曲 宇宙戦艦ヤマト(1977)

 このアルバムは小学校の5年か6年の頃、友人の家で聴いて初めて知りました。

 当時(1970年代後半、昭和でいうと50年前後)は同級生どうしで遊ぶ時、結構お互いの家を行き来していました。
 同級生の家は豪勢な一軒家もあれば一軒家なんだけど明らかにボロ家(失礼!)だったり、公団住宅だったり、安アパートだったりといろいろでした。思い起こせば、明らかに現代と同等以上の格差が存在していました。しかしこれだけは強調しておきたいのですが、子供たちはそんなことは一切気にせず、自分の家を自慢したり人の家を蔑むことなどなく、分け隔てなく交流していました。
 細かい経緯は忘れましたが、なぜだか同級生数名でY君の自宅(たしか公団住宅)に集まり、子供たちだけで袋入りのインスタントラーメンを作って食べたことがあります。私はこの時が袋入りインスタントラーメン初体験で、美味しいと感動したものです。イマドキは子供たちだけで危ないだのなんだの言われそうですが、こういう経験というのは大事なんじゃないかと思っています。
 (突然ですが、はっきり言ってドラえもんワールドの方が(少なくともメインキャラ間では)はるかに格差が無いというか上流家庭ばっかりで、そのくせ差別や暴力的いじめが結構多い。陰険さは少ないのがせめてもの救いか…?)

 そんな友人の一人、H君の家は広い二階建ての一軒家で、たぶんお金持ちだったのでしょう。しかしH君はそんなことはまったく意識する様子もなく、貧乏人の私らとつるんで遊んでいました。
 同級生数名で彼の家に遊びに行った時、たぶん高級だったのでしょう、大きなオーディオセットがあり、それで初めてこのアルバムを聴かせてくれたのです。

 広い部屋で皆は音楽を聴き流しながらマンガを読んだりだべったりしていましたが、たまたま私はスピーカーのそばにおり、このアルバムの『明日への希望 ~夢・ロマン・冒険心~』が耳に入りました。
 前半は有名なあのスキャット。
 そして後半、主旋律のメロディと一緒に、それとは違うメロディが並行して奏でられていることに気付きました。思わずスピーカーに耳をつけんばかりに顔を近づけ、そのメロディを聞き取ろうとしました。
 皆はそんなことは気づきませんから何をしてるんだろう、と思ったことでしょう。ただこの時、それまで音楽といえば主旋律ばかりを追っていたのが、異なる旋律のメロディの集合、その美しさに気付いたのです。

 翌年正月。
 H君の家で聴いた『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』の感動が忘れられず、思い切ってお年玉で買ってしまいました。レコードを買うというのはこの時が生まれて初めてで、小学生としては一大決心でしたねえ(^^;)
 当時家の近くに住んでいた親戚のお兄ちゃんも割とオーディオに凝っていたようで、LPレコードは傷がつくからカセットテープに落としてテープを聴き、レコードの方は大切にとっておくと良い、と言って、そのアルバムをカセットテープに落としてくれました。
 ただ、自宅にあったラジカセでは、H君の家で感じたほどの感動は得られませんでした。
 当時の感動がよみがえったのは数年後、モノラルとステレオの違いに気付いてからでした。

 若い方にはLPレコードとかカセットテープとか通じないだろうなあ……ゴメンm(_ _;)m
 次回に続きます。


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偉大なる半世紀の衆望

 今月に入ってからあまりブログに手を付けられていませんが、いろいろあって深く静かに沈没中……

      *      *      *

 沈没といえば。
 2023年2月13日、休憩時間にふと携帯からツイッター画面を見ると、「#日本沈没」がトレンドに上がっていました。
 さては誰かが日本の状況を「日本沈没」に例えたか!? と思いましたが、実はこの日の13時より、1973年版の映画『日本沈没』がBSで放送されていたそうです。といってもこの日は仕事だし、そもそもうちはBSなんて観られないのですが、それでも「日本沈没」が注目されるのは小松左京ファンとして非常に嬉しいものです。

小松左京ライブラリ

 そしてなぜこれが取り上げられたか……一つには、小説『日本沈没』が出版され、映画が公開されたのが1973年。上のツイッター画面にありますように、「日本沈没」は今年50周年を迎える、というわけです。
 ちなみに今年は1923年(大正12年)の関東大震災からも、ちょうど100年の年に当たります。

 半世紀!
 この半世紀の間に『日本沈没』は映画やドラマや漫画で何度も描かれ、様々な作品のモチーフに取り入れられ、さらには現実においても、地学的な意味ではない経済的・社会的な意味において「日本沈没」が唱えられています。
 実に半世紀もの間、これほどまで何度も取り上げられ、注目されるコンテンツはそれほど多くないのではないでしょうか。


 そして2月13日はもう一つ、松本零士先生が逝去されました。
 手塚治虫先生小松左京先生と同じぐらい、一つの時代の終わりを感じさせる、大きなニュースでした。
 松本ワールドの中でも特に話題となる、知名度の高い作品といえばおそらく『銀河鉄道999』『宇宙戦艦ヤマト』の2シリーズになるのではないでしょうか。もちろん他にも多数の作品やキャラがありますが、大雑把にみて『999』を中心にほとんどの松本ワールドが取り込まれた巨大世界が形作られる一方、『ヤマト』は一部重なりながらも独立した、一本の太い世界を構成しているように感じます。
 むろん現実には『ヤマト』について原作者問題などいろいろと複雑な問題があったことは確かですが、ほとんどの人にとって「松本零士」と『ヤマト』は切り離せないものであり、『ヤマト』も松本ワールドの一部であることに異存はないと思われます。

宇宙戦艦ヤマトオープニング

宇宙戦艦ヤマトオープニング

 『宇宙戦艦ヤマト』が最初に放送されたのは1974年。こちらもほぼ半世紀が経過しています。途中いろいろとありながらも、やはり半世紀もの間何度も取り上げられ、注目されてきたコンテンツの一つと言えるでしょう。

      *      *      *

 昨今話題になっているもので、人気の出たものの中で、半世紀未来でも多くの人々が多少なりとも知っている……そんなコンテンツはどれほどあるでしょうか。
 もちろん当時に比べて現代は価値観や趣味嗜好の多様化、世の中の複雑化、文字通り掃いて捨てるほどの情報過多の中にあり、誰もが目を向けるほどの共通の話題が生まれにくくなっていることもあるでしょう。
 どちらが良いかは一概に言えることではありませんが、多様化・複雑化から分断化に向かう懸念すらある現代から振り返ると、誰もが知っているほどの「ブーム」が世の中を席巻していた時代を、ある意味懐かしくも感じます。

 もちろん全員が同じ方向を向く必要はありません。むしろそんな画一化も決してよくない。
 かつて、男は誰でもタバコを吸って当たり前、野球ファンであることが当たり前、と言われた時代がありました。今でもオリンピックやサッカーには誰でも熱中して当たり前、誰でもディズニーランドが好きで当然、といった「全体主義的」嗜好は現存しており、その信奉者は他のものを排斥しようとします。
 小松左京や松本零士を知らない人がいても別に構わないのとまったく同様に、オリンピックに興味がなかったりディズニーランドが嫌いな人がいてももちろん良い。

「オリンピック? やってたの? 僕は見てないけどどうだったの? へえ、良かったね!」

「みんな見てるんだから見ようよ」などと言うような全体主義者は論外として、互いの興味の対象について、否定せずにこれぐらいの距離感で語り合うぐらいがちょうど良いのではないでしょうか。その中で、おそらく半世紀後も語り継がれるような出来事やコンテンツがこれからも生まれてくると期待したいものです。

 ただしオリンピックといえば、選手の頑張りとはまったく別の話として、オリンピック汚職は徹底的に追及することは切に、切に希望してますが(-_-;)

謹賀新年 - 2023年 AMPは警察の枠を超えるか

 皆様、あけましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします m(_ _)m

 2022年もいろいろとありましたが、最も大きな事件の一つとしてウクライナとロシアの戦争が挙げられると思います。未だ解決に至らず長期戦の様相を呈していますが、今年は平和に近づくよう祈りたいものです。
 またこちらにも書きましたように、2022年はツイッター上で「あと90年」という言葉も話題になりました。かのドラえもんの誕生日が2112年9月3日なので、ドラえもん誕生まであと90年。鉄腕アトムの2003年にも思いましたが、SFで描かれる遥かな未来が、それなりに実感の沸いてくるところまで近づいてきているのも不思議なものです。

      *      *      *

 さて。
 ここ数年、元旦にはその年にまつわるSFを掲載していますが(いつまで続くかなあ……ネタ切れにならないかなあ……2024年のネタ、今から募集しようかな ^^;)、タイトルの「AMP」というのは麻宮騎亜先生の『サイレントメビウス』に登場する、警察内の特殊部隊。これが設立されたのが2023年です。
 『サイレントメビウス』。1988~89年に連載、90年代にテレビアニメや劇場アニメが作られ、スピンオフ作品や続編もあるようですが、原作全12巻しか見ていなかったため、相違などありましたらご容赦ください。

 この作品では2000年頃から妖魔(ルシファーホーク)と呼ばれる邪界(ネメシス)からの存在が引き起こす事件が増加し、その対策として対妖魔用特殊警察(Attacked Mystification Police Department;AMP)が2023年に設立されます。
 物語の舞台はその3年後、2026年の東京。
 おそらく現在よりもはるかに高い、その壁は窓が並ぶビルというよりも巨大化したサーバーか何かのように見える超高層建築が幾層にもひしめき合う一方、街は雑多で荒廃した雰囲気が漂い、スクリーンをぶら下げた飛行船が「酸性雨注意報はただいま解除されました」と放送している光景……これは『ブレードランナー』(1982)で描かれたロサンゼルスとよく似ています。 
 原作者の麻宮先生自身、「『ブレードランナー』には、リスペクトがあります。舞台と同じ時代、日本はどうなっている……というところから設定を考えたところもある」と語っているそうです(サイレントメビウス:14年ぶり復活の裏側 マンガ・アニメ史変えた革新性に迫る)。
 妖魔の被害者が「兵器省職員」っていうぐらいだから、日本は再軍備・軍拡してるのかも知れません(何に対して、によっても話は変わりますが)。
 作中で20世紀の文化財として保護されている東京タワーが出てくるのですが、ここでの東京タワー、何と周りを自身よりもはるかに高い超高層ビルに囲まれています。これは「ええーっ」となったなあ(^^;)

2020年の東京タワー
2020年の東京タワー。これが小さく見えるぐらいの超々高層ビルが周りを囲むっていったい……(@_@)

 このAMPのメンバーは魔術や超能力、あるいはサイボーグなど様々な特異能力を持つ6人の女性。その特異能力で、通常の警察装備ではどうしようもない妖魔に対抗するというわけです。
 メンバー1人1人が違った特異能力をもって戦うのは『サイボーグ009』を彷彿とさせますし、警察内組織という点では『機動警察パトレイバー』も連想します。
 しかし特に際立っているのは、メンバー全員が若い女性という点。今でこそ珍しくないようにも思いますが、麻宮氏によれば「AMPのメンバーは全員女性。女性だらけのチームが戦うというのは(米ドラマの)『チャーリーズエンジェル』や(日本のドラマ)『プレイガール』ではあったけど、当時のマンガでは珍しかった。女性には生命を育む力があり、男性よりも強い。『サイレントメビウス』は女性賛歌でもあるんです」とのこと(出典はこちら)。

 AMPは上述のように警察内の一組織ですが、実はAMPのリーダーであるラリー・シャイアンが組織したもの、らしい……。一個人が警察内に組織を作れるのか? と思いますが、実際には事情を説明して警察を動かし作らせた、ということですかね?
 それにしても、彼女はいちばん年上とはいえ、1991年生まれの設定なので、2023年当時で若干32歳! うーむ、ただ者ではない(貫禄ありまくりなので絵的にはもっと年上に見えますが)。しかもですね、この世界では警察ですら民営化されており、警察組織がまともに機能しておらず妖魔と戦えないと見るや、警察を買収して自ら指揮を執るという……!!
 大抵の人はAMPメンバーの中でももっと若かったり可愛かったりカッコいいメンバーのファンが多いでしょうが、個人的にはラリーがいちばんカッコいいと思ってますよ。ちょうど『パトレイバー』の後藤隊長に似た、シブいカッコよさでしょうか。そういえば『ブラックジャック』でも患者を助けるために病院を丸ごと買い取る話がありましたが、あれもカッコよかったですね。

 後藤隊長の場合、現実の警察組織に近い様々な枠組みの中で悪戦苦闘したり、うまく立ち回ったり、諦観したりします。
 一方ラリーの場合は妖魔という日常を完全に超越した存在と相対するため、枠組みを超えて非常手段に打って出る必要に迫られます。
 警察組織や世の中の状況が違うだけで、割とよく似た指揮官ではないでしょうか。

 ネメシスからの侵攻が進むにつれ、人間界がどんどん邪悪になっていくのに対し、邪界(ネメシス)側は浄化が進んでいくというのは何とも皮肉な状況ですが、そもそも両世界の不穏分子を入れ替えることが目的にあった、らしい。
 AMPと妖魔との戦いは多大な犠牲を払いながらも、最終的には敵役一人が諸悪の元凶みたいになって、そいつを倒して人間界と邪界の間に和平が成立します。
 妖魔のような存在でも和平が成立するんだったら、現実世界の人間どうしでも一刻も早く和平が成立してほしいものです。いや、ほんとに。

      *      *      *

 あ、AMPと『パトレイバー』の特車2課が共闘する話って思いついた。舞台は二十数年隔たってるけど、そういえば妖魔事件が起こり始めるのは2000年頃。ちょうど『パトレイバー』の舞台です。特車2課が対処しきれなかった妖魔事件を、タイムスリップか何かでAMPと共闘するとか、どうですかね? どなたか一緒にいかがですか?(^^;)


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テーマ : SF・ホラー・ファンタジー
ジャンル : 小説・文学

アニメ『夏へのトンネル、さよならの出口』

 2022年10月1日。
 この日は久しぶりに同じ日が休みとなったため、その前日に妻が「映画に行きたい」と言い出しました。
「何ていう映画?」と私。
「夏への扉」
「ん? ハインライン原作?」
「確か原作があるはずだから、そうじゃないかな」
「『夏への扉』はハインラインの古典的名作SFだけど、そういえば映画化されたんだっけ?……上映中作品には見当たらないけど」
「えっと……あ、これこれ」
「『夏へのトンネル』?……ってちゃうやん」(笑)

『夏へのトンネル、さよならの出口』入場者特典
 早い上映回を選んで新宿のバルト9で観ましたが、この日の入場者特典は「さよならのあと、いつもの入り口」と題された30ページほどの小冊子。原作者の別作品? と思ったら、本編の続編でした。こういう特典も面白いですね。

八目迷氏サイン(印刷)
最後のページには原作者のサイン(印刷ですよ、念のため)。

      *      *      *

 「ウラシマトンネルに入ると、欲しいものは何でも手に入る」という都市伝説。しかし、出てくると外では長い時間が過ぎ去っている、つまり代わりに時間を失ってしまう……(ちょうど亜光速宇宙船に乗って帰ってくると地球では膨大な時間が過ぎているような、いわゆるウラシマ効果ですね)。
 本作の紹介を見ると「ボーイ・ミーツ・ガール」ものだとか「ひと夏の物語」系だとか言われてますが、一言で言うなら「過去への決別と未来をつかみ取る物語」でした。
 「ウラシマトンネル」もなかなかうまく利用されていて、よく出来た短編SFだと思います。

 以下、完全なネタバレとなります。ご了承のうえで、下の「続きを読む」から、または以下の文章にお進み頂きますよう、お願いいたします。

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テーマ : 特撮・SF・ファンタジー映画
ジャンル : 映画

あと90年

 2022年9月3日。何気なくツイッターを見ておりますと、「#あと90年」というワードがトレンドに上がっていました。
 何だろう、と見てみますと、ドラえもんの誕生日が2112年9月3日。ドラえもん誕生まであと90年、というわけです。

JR登戸駅のドラえもん
 JR登戸駅に描かれたドラえもん。

 『ドラえもん』は1969年に連載が始まっていますから、作品発表時からみると実に143年先の未来ということになります。確かにそれほど未来だと想像できないというか、「なんでもアリ」な気になってしまいますね。
 その遥か未来から来たドラえもん、 

「きみは年を取って死ぬまで、ろくなめにあわないのだ」


 などとのび太を脅します。ドラえもんの持ってきたアルバムを見てみると……

1979年 大学入試らくだいなぐさめパーティー
1988年 しゅうしょくできなくて自分で会社をはじめ
(フレームで切れてる)
1993年 会社丸焼け記念
1995年 会社つぶれ借金取りおしかけ記念


 会社丸焼けの横で花火持ってるのび太って……いささかおふざけが過ぎる気もしますが(苦笑)
 それにしてもこのエピソード、どれももはやはるか昔のことですよ! 現在の版でもこのままなのかな?

 そこでご存知のように、のび太の孫の孫であるセワシが過去(のび太にとっては未来)を変えるべく、ドラえもんを現代に遣わせたわけですが……

「ぼくの運命が変わったら、きみ(セワシ)は生まれてこないことになるぜ」
「心配はいらない。他でつりあいとるから。
 歴史の流れが変わっても、けっきょくぼくは生まれてくるよ。
 たとえば、きみが大阪へ行くとする。いろんな乗り物や道すじがある。だけどどれを選んでも、方角さえ正しければ大阪へ着けるんだ」


 のび太にしては鋭い指摘に対して、セワシの答えはどうでしょうか?
 確かにセワシに「相当する存在」は生まれるでしょうが、セワシそのものではないですよね……??
 柳田理科雄先生は、本当にそうならダブル不倫的なことがなければならなくなる(笑)なんてたしか『空想科学読本』で述べておられました。
 一方で『ドラえもんのひみつ』?だったかそうした本で、あれほど科学の進んだ道具がたくさん出てくる中で、くだんのアルバムだけは古色蒼然とした昔ながらのものだったので、実はあの中身はのび太を奮起させるための「創作」だったのだ、という説が展開されていたと記憶しています。
 理屈で言えばこれがしっくりくるのですが、また一方ではアルバムの未来を否定するのは作者の本意ではないとか、ファンタジーなんだからアルバムの未来もセワシの説明も「あり」でいい、という主張もみかけます。
 どれが正しいのか……いや、正解がないのが正解、と考えるべきでしょう。セワシの説明を受けたのび太は、何となく怪訝そうな表情をしています。おそらくそれは作者の藤子・F・不二雄先生自身の表情なのでしょう。

 あと90年! 私らは確実に生きていないでしょうが、今頃に生まれた子どもたちは、その時代を見ることができる可能性があるわけです。
 願わくば、平和で心豊かな世界となっていますように。


『ジュラシック・ワールド』のカーテンコール

 2022年8月上旬。映画『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』を観てきました。
 「恐竜映画の金字塔」とも言われる『ジュラシック・パーク』(1993)以降、各作品の出来にはかなりの波がありつつも、「シリーズの壮大なる終幕」とまで銘打たれたこの完結編にはそれなりに期待していました。
 前作のラストで恐竜が解き放たれ、その後の世界がどうなったかも興味ありましたし。

 今回は午後から所用のため、できるだけ朝早い上映回を検索。選んだのは、TOHOシネマズ新宿の8:30からの回でした。
 こちらの映画館にもゴジラが屋上に顔を出しています。

TOHOシネマズ新宿の屋上から顔を出すゴジラ

 『シン・ウルトラマン』観た時もTOHOシネマズ日比谷にゴジラがいましたが、東京に来てからはゴジラにもよく出会います。

新宿駅にてラプトルの「ロボット」
JR新宿駅ではコラボ企画でラプトルの「ロボット」が。

      *      *      *

 さて、映画の内容ですが……

 えっ、雪の降りしきる中で活動する恐竜?
 近年は恐竜温血説も結構メジャーなようですから、そうした学説も取り入れたのでしょうか。あるいはそうした遺伝子を組み込んだのか?(そう言ってしまうとなんでもアリなのがこのシリーズの設定のすごいところ ^^;)

 しかし本シリーズでは相変わらず登場人物が直情径行型というかムチャというかわがままというか……そのおかげでシリーズ第二作『ロスト・ワールド』(1997)では、ただ一人何も悪くないキャラが無残に恐竜に食われるという理不尽な展開があり、当時このシリーズが嫌いになった(こちらのにゃんにゃんさんのブログに、まったく同感の記事がありますのでぜひ)こともあったので不安を覚えつつ観続けると……

 かなりでかいイナゴ(正確にはバッタでは?)の大群が登場。バイオシン社の畑だけ食い荒らされないというのは、農薬会社がやってきたと言われるあくどい手段と同じというのはすぐにピンときますが、このシリーズって大企業を悪者にするのが好きですねぇ。
 バッタの大群による蝗害(こうがい)は、古来より飢饉を引き起こす重大な自然災害です。巨大化ではなく、猛烈な繁殖力とか薬剤耐性を悪徳企業や軍が組み込んだ、だったら確かにありそうですね。いや、本当にありそうでコワいですが……。

 この巨大化昆虫ってよくあるSFネタですが、昔読んだ本によると、昆虫は気門で呼吸するため、巨大化すると台風並みの強風がないと呼吸できなくなるそうです。
 えっ、作中では恐竜にもいろんな生物のDNAを組み込んでるから、別の生物のDNAを使ったのではって?
 確かに古生代には巨大昆虫がいましたが、一説では当時は酸素分圧が高かったからとされています。現代の大気組成でも気門で呼吸できる巨大生物は、たぶん出現したことはないと思われます。まったく新しく創造しない限り……。
 まぁマニアックなツッコミは置いときまして。それにしても「恐竜映画」で飛蝗を登場させるのは、唐突というか「取って付けた」感があります。

 全体を通して感じたのは、味方の行動も敵の組織もちょっと雑すぎ
 そして都合よく絶妙のタイミングで再会するというのも、アメリカン映画のお約束
 個人の活劇が中心で、世に放たれた恐竜との共存がどうなったかは少なく、そもそもその個人の活劇を盛り上げるためだけに恐竜を使っているような気も。このあくまで「個人」メイン、ヒーロー中心というのもアメリカン映画的ですね。
 他のモブキャラだと恐竜に食われてしまう状況でも、主要キャラだと助かったり。
 過去作でも見たような場面があって、オマージュかも知れないけど、悪く言えば「二番煎じ」。
 なんか散々言ってますが、恐竜をもっときっちり描くか、取って付けたような「恋愛」模様?よりも、人間や社会を詳しく描いてくれたら良かったと思うのですが……。

 イアン・マルコム博士、前作ラストの「ジュラシック・ワールドへようこそ」という皮肉たっぷりのセリフが印象的なキャラですが……
 バイオシン社で若い職員に向けて講演を行っていたシーン。
 敵にバレて去る時、そこの職員に投げかけた弁舌。
 こうした場面で、何か少しでも登場人物または観客の心に響く言葉が出てくるんじゃないか、と目を凝らしましたが(耳を澄ませた、じゃなくてスミマセン。吹替版じゃなく字幕版だったので ^^;)、なかったですね。ここで弁舌でキメるのがイアンだと思うのですが、結局彼も「個人の活劇」の一員になってるし。
 これまでのシリーズ主要キャラ揃い踏みというのは豪華ではありますが、いささか詰め込み過ぎ。絶妙のタイミングで助けに来る新キャラも加わって、そこまで人数いるの? て感じでした。

 ラスト、シャーロットが恐竜との共存を言ってましたが、その場面では角竜とゾウが一緒に歩いてたりするので、隔離した保護区ではなく、普通に自然界で共存のようです。しかも登場するのは主に草食恐竜。
 キャパシティ問題(たとえ争わずとも、恐竜が増えた分、現生動物を圧迫しかねない)を除けば、草食恐竜とは共存できるかも知れません(ただ草食恐竜って中生代には裸子植物を食べてたはずですが、現代の被子植物も食べられるんですかね?)。
 しかし肉食恐竜はどうでしょう?

 現代において、たとえばクマが人を襲ったとなれば、たとえ人間が住処を奪ったのだとしても、残念なことですが人間はクマを狩り立て、射殺してしまいます。
 凶暴な肉食恐竜が世に放たれたならば……おそらく世界中で軍隊が出動し、最後の一頭まで徹底的に狩り立てるでしょう。根絶できなくとも、それこそウルトラマンの「禍特対」みたいな組織が作られ、本作の主要キャラもそれに引っ張られるか、協力させられるでしょう。

 そんな場面もあったような気もしますが、メインは「ヒーローと悪徳企業との対決」に終始してしまった。恐竜は世界中に広まったというのに舞台はこれまで通り、そのため相対的に矮小化してしまったように思います。タイトルの「新たなる支配者」って誰なん?

 これまでの枠にとらわれたまま、シリーズの主要キャラが揃い踏みした最終話。
 それはまるで、舞台のラストで役者が観客の前に揃って現れる、カーテンコールを思い出させるものでした。


関連記事:
 映画「ジュラシック・ワールド/炎の王国」感想

テーマ : ジュラシックパークシリーズ
ジャンル : 映画

映画『シン・ウルトラマン』-私の好きな〇〇です(笑)

『シン・ウルトラマン』、いろいろと話題になってますね。かく言う私も、2022年6月12日に行ってきました。
 実は、当初はそれほど観に行くつもりはなかったのですが……

 と言いますのも、それぞれお好きな方には申し訳ないのですが、『シン・ゴジラ』はワタクシ的にあまり面白くなく、『シン・エヴァンゲリオン』はエヴァ作品自身についていけなかったこともあり未見だったため、「シン」と付く作品には警戒していました。
 しかし、かの柳田理科雄先生が『空想科学読本』内で論述されていたウルトラマンネタに「アンサーがある」という記事を見つけ、また『シン・ゴジラ』とは違うというネット評が結構あったため、それなら見てみたいと思うようになりました。
 しかも珍しいことに妻も興味を示したため、妻の用事が終わってから見に行ける上映回のある映画館を検索。選んだのがTOHOシネマズ日比谷でした。

日比谷ゴジラスクエア
映画館に向かう一角で、なんとゴジラが。

TOHOシネマズ日比谷のゴジラ
しかも映画館内にも。

『シン・ウルトラマン』入場者特典
 入場者特典は……メフィラスの名刺!(^O^)
 書いてある言葉の端々までメフィラスっぽくてナイスです。

 さて。
 肝心の映画ですが、前半はどうも飛ばし過ぎ、詰め込み過ぎじゃないか、また解決方法が予定調和的だと感じた部分もあったものの、後半でかのメフィラスが行動し始めるあたりから、俄然面白くなってきました。
 上でも書いた『空想科学読本』の他、『幼年期の終わり』 『日本沈没』 『さらば宇宙戦艦ヤマト』 『果てしなき流れの果に』……と私の好きなSFを連想させるような内容が次々と盛り込まれた、てんこ盛り状態。
 映画を観るときは面白ければ後からパンフを買う、ようにしているのですが、今回は観終わってすぐ買ってしまいました

『シン・ウルトラマン』パンフレット
なんと「ネタバレ注意」と書かれた帯で留められています。観る前に買う人向けですね(^^)

 本作品は現在も上映中でまだまだ続きそうですので、ネタバレを避けようと思うと大したことは書けません。以下はネタバレも含みますので、ご了承いただける方のみ、下の「続きを読む」から、または以下の文章にお進み頂きますよう、お願いいたします。

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テーマ : 特撮・SF・ファンタジー映画
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小説『蒼衣の末姫』

 以前アップしました短編『Too Short Notice』で作者の門田充宏(もんでんみつひろ)先生のお名前を初めて知り、2022年4月16、17日のSFカーニバルにも参加されるということで、ぜひご尊顔を拝したい、と行ってきました。そこで門田先生にご挨拶させて頂くことができ、御著作『蒼衣の末姫』にサインまで頂戴してしまいました \(^o^)/ 

『蒼衣の末姫』表紙と門田先生のサイン

 冥凮(みょうふ)と呼ばれる、無作為に人間を襲う怪物が跳梁跋扈する世界。冥凮・人間いずれにも毒となる水が流れる川、凬川(ふうちゅあん)を冥凮からの防衛線とし、人類は6つの「宮」を築いて分業体制を敷いていた。冥凮との戦いに専念する「一ノ宮」。工業に特化した「二ノ宮」。宮間の交易を担う「三ノ宮」……。
 冥凮を倒す能力を有する「蒼衣」の家系に生まれながら、「蒼衣の末姫」キサはごく低い能力しか発揮できず、陰で「捨姫」とさえ呼ばれていた。
 一方、三ノ宮では赤ん坊に「異能」と呼ばれる特殊能力を付与することが行われていたが、十分な異能を持ちえず、役立たずの烙印を押された少年、(いくる)がいた。
 冥凮廃滅に失敗し、凬川に落ちたキサは、流れ着いた先で生に助けられる。生をはじめその地で出会った仲間たちとともに、キサは自らを追ってきた冥凮の群れに立ち向かう……。

      *      *      *

 本作では「冥凮(みょうふ)」、「紅条(ほんちゃお)」、「飛信(ふぇいしん)」といった独特の漢字と読み方の言葉が頻出し、東洋的で独特の雰囲気を醸し出しています。それだけに分かりにくい面もありますが、そのうち読み方の把握にはこだわらず、雰囲気を楽しむ感じで読み進めました。
 主人公はいずれも無能呼ばわりされ自分に自信のない少女・キサと少年・生の二人。ということで、ネット上の本作の感想は「ボーイ・ミーツ・ガール」的な作品として捉えたものが多いように見受けられます。
 実は、Web東京創元社マガジンの「ここだけのあとがき」でも、門田先生は「原形となる物語を書いたのは1996年のこと」であり、「頭にあったのは、少年少女を主人公とした冒険活劇を描く、ということ」とお書きになっておられます。
 つまりこの作品はまさしく「ボーイ・ミーツ・ガール」のスタイルであり、ハンディキャップや負い目を持つ二人がそれを克服し、他者を理解していく「成長物語」といえるのですが……

 私個人としては、主人公たるキサと生もいいんだけど、それよりも二人の周りを彩る登場人物にとてもひかれました。
 腕力だけでなく統率力や人格も備えたサイ、口達者で頭の回転も速いトー朱炉(しゅろ。彼女はついでに足も速い、というかそれが彼女の本領 ^^)、本来の役目以上にひたむきにキサを護るノエ、無口な剛力男だけどたぶん人のよさそうな亦駈(またく)、そして出番は少ないけど「知恵」という異能から重職を担う少女、護峰(ごほう)……。
(ちなみにカタカナの名前は一ノ宮側、漢字の名前は三ノ宮側の人物。これって「宮」が成立していく過程で国や民族による分業や人種差など「何か」があったのでは、と勝手に推察 ^^;)
 こうした魅力的な登場人物による「群像劇」としての魅力、をとても感じました。

 ものすごく単純・安易な例え方をしますと、スタイルとしては『風の谷のナウシカ』ワールドでパズーとシータが出会うような感じなのですが、私としては例えば『宇宙戦艦ヤマト』で古代進や森雪よりも真田技師長とか藤堂長官が好きだとか、『銀河英雄伝説』でヤン・ウェンリーやユリアンもいいけどアッテンボローやムライ参謀長が好き、みたいな感じ? 余計分かりにくいですかね(^^;)

 そしてこの世界では冥凮は間違いなく敵として、人間側には明確な「敵」役がいないところが特徴的と感じます。敢えて言えば、冥凮に対抗するため合目的的に硬直化した人類社会全体が、主人公たちにとっての「敵」となるでしょうか。
 だからこそ、そこからはみ出した者、変わり者としての登場人物たちがより活きるのだと感じます。

「命の価値には歴然とした差がある。その者が生き残ることで、これからあとどれだけ多くのひとを護り、救うことができるのか。それが唯一にして絶対の尺度だ」

というノエの言葉は単純に肯定し切れないところですが、「この世界」下ではやむを得ない部分もあるでしょう。一方でノエの

「ないものを嘆いてもなんの役にも立たない。今この手の中にあるもの、それらのすべてを使い切る覚悟で立ち向かうのみ」

というのは現代でも通じるものであり、主人公二人の「成長」にも大きく係わります。
 そしてサイの

「なんでもかんでも自分の手柄じゃと思い上がるのも大概じゃが、逆に自分はなにもしとらんと卑下するのもつまらんことじゃぞ」

という言葉、主人公たちの活躍を認め、硬直化した人類社会にさえ風穴を開けるものであり、さらには現代社会にも通じる重要なスタンスと感じます(だからサイってシブいんですよ~ *^^*)

 冥凮の行動変容と、主人公も含めた様々なはみ出し者たちの活躍は、おそらく硬直化した人類社会の変化の前兆ではないかとも思えます。
 本作品には続編を期待する声も多いようです。もしも人類社会が変化し、「宮」間でこれまでにはなかった協調関係が発展するならば、彼らが重要な役を担うのではないか、などと夢想してしまいます。


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テーマ : SF・ホラー・ファンタジー
ジャンル : 小説・文学

短編 『Too Short Notice』

『時を歩く』表紙

 東京創元社文庫創刊60周年記念刊行SFアンソロジーの時間編、『時を歩く』。創元SF短編賞の正賞・優秀賞受賞者、佳作入選者7名の作品を収録、「2020年代のSF界を牽引する“東京創元社生まれ”の気鋭作家たちが贈る、書き下ろしテーマ・アンソロジー」なのだとか。
 時間ものSFはこれまでも取り上げてきましたように好きなテーマですので、どんなものか拝読させて頂きましょう、と手に取ってみたのですが。

 冒頭の一作目、松崎有理氏「未来への脱獄」
 刑務所に服役することとなった主人公と同じ房にいたのは、自分は未来人だと主張し、陪審員を怒らせて懲役250年をくらったという怪しい人物。その人物はタイムマシンの原理を披露し、二人は刑務所内の限られた資材を使ってタイムマシンを作り始める……。
 一ヶ所だけ、「実験」を行った時なぜそうなったかが理解できなかったのですが、その一点を除き、タイムマシンをどのように使ったのか、彼はどうやって250年もの服役を乗り切ったのかは、なるほどと思わされました。ラストの

「おい、おまえの相棒は正真正銘の未来人だぞ。これからは彼を助けて、こんどこそ未来へ帰れるタイムマシンを作ってやれ。やつの贖罪は終わったんだ」

という言葉がとても清々しく感じる、良い作品でした。


 ただ二作目以降は……
 幽霊譚を題材にしているものの、複雑でついていけなかったお話。
 有名な「アキレスと亀」のパラドックスを題材にしているのだけれど、ラストがよく分からないお話。
 何とか巡礼とか次々出てくるのだけれど、だから何なのかよく分からないお話。
 厚労省に雇われた非正規職員が、業務として時間遡行して事故や災害から被害者を救う……のはいいのだけれど、何だかオチがないようなお話。
 〈不老不死〉と〈意識拡張〉を得るため人類が仮想現実内へ総引っ越しするのだけれど、それと「地球延命計画」を無理やり結び付けたようなお話。
 うーん、その他はワタクシ的にはイマイチだったかな?(一個人の感想です ^^;)と思ったのですが。

 最終話、門田充宏(もんでんみつひろ)氏「Too Short Notice」。これは往年の小松左京作品を思い出させるほど、深く感動しました。

      *      *      *

 気が付くと、彼は何もない白い部屋にいた。部屋の一角には不規則にカウントダウンする謎の数字。そこへ現れる一人の「美女」。美女ということは分かるが、なぜかつかみどころがなく、どう美しいのかも分からない-。
 やがて明かされるのは、彼は事故によって現実にはあとわずかで死んでしまう運命にある。そこでこの特別処置が開始されることになった。この仮想空間内では主観時間が大幅に引き伸ばされ、彼の望むままのことを行うことができる……。
 謎のカウントダウンは使用できる情報量を示しており、複雑なことをやればそれだけ早くカウントダウンが進む。「美女」がつかみどころがないのも、具体化すればそれだけ情報量を消費するためだった。
 もし情報消費量の少ないこの白い部屋のままなら、過ごせる主観時間は実に382年。それは現実的ではないが、例えば本人の記憶を元に「人生を一からやり直してみる」ことさえできる。しかも「これは現実じゃない、本当はあと少しで死ぬ」なんて思ってたら楽しむことはできないが、そうした意識をブロックすることさえ可能……! そして何を望んだかというプライバシーも守られるようで、たぶん「あんなこと」や「こんなこと」(笑)も思いのまま……。

 そんな状況だったら、何を望むだろうか?

 すべて仮想空間で完結するだけではなく、現実世界に影響を与える術もあることを知った彼が望んだこと。それは与えられた情報量の大半を消費してでも、彼が係わっていたある壮大なプロジェクトを、ほんのわずかでも一押しすることだった……。

      *      *      *

 そう書くと何だか主人公が一種の「仕事人間」みたいに思われてしまうかも知れませんが、そんなみみっちい?「仕事」の話ではありません。もし仮に私が同じ状況になったとしても、そんな有意義なプロジェクトに携わったことの無い身としては、現実でやっていた仕事をやろうなどとは1ミクロンも思いません!(きっぱり) 現実世界にもアウトプットができるのであれば、現実ではできなかった著述業をやってみたいな、とは思いますが。
 少々ネタバレ気味かも知れませんが、彼が望んだことは、以前書きました「人類の記憶よ永遠なれ」の内容にも通じるものでした。

「彼らは、自分たちがそろそろ終わりを迎えつつあることに気付いてしまっていた。
 それほど遠くない未来に、誰にも看取られないまま、知られることのないまま自分たちは滅び、その痕跡さえもいつか消滅する。そうして初めからいなかったのと同じことになってしまう。このままなら。」


 だからこそ、彼はこのプロジェクトに携わり、実を結ぶかどうかも分からないものの、仮想空間からのアウトプットを行ったのです。

      *      *      *

 SFでは仮想空間への意識転送で不老不死、みたいなテーマがちょくちょく描かれますが、たとえ仮想空間にコピーしたとしても、それは自分とは別の独立した「もう一つの自分」。自分とは別に、仮想空間にいる存在が不老不死となるだけで(それだって仮想世界を維持するハードウェアにもいずれ限界が来ると思うのですが)、現実の自分はやはりそのまま、いずれは死ぬ存在であるはず。
 やはり現実世界に勝るものはない。かりそめの仮想空間でかりそめの享楽を享受するよりも、現実世界にほんのわずかでも成果を残したい。
 己の(仮想空間での)残りの人生すべてを賭けてでも成し遂げよう、という主人公の姿には心から感動しました。それほどの「為すべきこと」があるというのも、ある意味うらやましく思います。まぁもしも仮に自分が同じ立場になったとしても、これほどのことはできないだろうな、という自信(笑)はありますが……。
 ラスト、彼をサポートした「美女」ー AIが作り出し、彼が死ねば役目を終えて存在しなくなるはずの彼女も、こう応えます。

「本当だったらただ消えてしまうだけだったはずのわたしも、もしかしたら何かを残せたかもしれない、って思うんです。ご一緒でてきて楽しかったです。本当にありがとうございました」

 彼がどんな人生を歩んできたのかは分かりませんが、彼の現実世界での人生、そして死の間際でも成し遂げようとしたことを理解し、価値を認めた彼女の言葉は、おそらく彼にとって最高の手向けとなったのではないでしょうか。仮想世界のどんなかりそめの享楽よりも、彼は満足したのではないかと思います。
 自分は、そして人類は、何を残せるだろうか……
 大したことはできやしないのは充分に分かっているのですが、時にはそんなことを思ってしまいます。

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