「いじめをするのなら・・・」
へろんです。
先日、MBSラジオの「朝からてんコモリ!」で子守康範氏が紹介しているのを偶然聞いて知ったのですが、ある声優さんがツイッターに書いた文章が大きな話題になっているとのこと。紹介された文章は大いに共感できるものだったので、その夜うろ覚えの名前や内容でネット上を探し回りました。
春名風花という人(すみません、知りませんでした)のツイッターだったのですが、どうもツイッターって時系列がよく分からないし、順番もよく分からないものの、2019年8月25~26日にアップされたもののようでした。
本当はこうしたニュース記事が分かり易いかも知れませんが、どうしてもご本人の文章を確認したかったので、以下にその部分を引用させて頂きます。
* * *
毎年この時期になると「無理して学校に行かなくて良いんだよ」というツイートがタイムラインに溢れます。一見優しい言葉に見えますし、緊急対応としても間違いではありません。でも、「学校に行かなくてもいいんだよ」と言うメッセージは、本来、いじめている側にかけるべき言葉です。
他人の学ぶ権利を邪魔するのならば、学校には来ないでください。いじめなんてせず、真面目に学校に通いたい人達の迷惑になります。そして、いま現在いじめを受けている皆さん。あなたがたには堂々と学校に行く権利があります。誰にも遠慮せず学ぶ権利があります。その事を絶対に忘れないでください。
学校から追い出されるべき生徒は、いじめを受けた子どもではありません。学校に残さなければならないのはいじめをしていない子どもたちです。「つらいなら学校なんて行かなくて良いんだよ」と、いじめられた側を追い出して、何事もなかったように学校生活を送ろうとする人達を、僕は絶対に許せない。
なので、夏休みの終わりに声を大にして書いておきます。「いじめをするのなら、学校なんて来なくても良いんだよ」
* * *
「学校なんて来なくても良い」なんて甘すぎる。「いじめをするのなら、学校に来るな」と言うべきと思います。
こう言うとよく出てくる反論が、いじめた側の学ぶ権利を奪うのか、という擁護論。
でもいじめた側というのは、すでにいじめられた側の学ぶ権利を奪っています。
人はどんな人であっても様々な権利を持っています。しかし他者の権利を奪ってしまった者は、どんなに「犯罪者にも権利がある」と叫ぼうが、自身の権利を制限されることになります。いじめられた側の学ぶ権利を侵害した者が、自身の学ぶ権利を主張するのは虫が良すぎます。
いじめた側にも事情がある(家庭の事情とか自身もいじめられたとか)という擁護論もよく出てきますが、たとえどんな事情があっても「やってはいけないこと」って間違いなくあるじゃないですか。その「やってはいけないこと」に、どうしていじめは入らないのでしょうか?
子供なんだから、という意見もありますが、たとえ子供だって罪を犯せばまったく何も措置を取らないというわけではないでしょう。何だったら監督責任でいじめた側の親を罰してもいいと思います。
結局、今の社会は「いじめ」というものを犯罪だと思っていないのではないでしょうか。だからいじめた側の権利だの事情だのを持ち出してくる輩も出てくる。
そしてこの問題、「学校」を「会社」のような大人社会に置き換えた場合、より難しい問題になってきます。
会社でいじめがあったら、いじめた側ではなく、いじめられた側が会社を去るのがほぼ100%ではないでしょうか。教育現場である「学校」と利益追求の場である「会社」の違いは承知の上ですが、人の集まりという共通項で考えた場合、そうした大人社会の悪弊が子供の世界にも反映しているように思われます。
最近はようやくハラスメント問題が注目されて「いじめた側」の責任もある程度は追及される可能性も出てきたようです。子供であっても、そもそも「いじめ」というものが犯罪であるという認識が広がってほしいものです。
先日、MBSラジオの「朝からてんコモリ!」で子守康範氏が紹介しているのを偶然聞いて知ったのですが、ある声優さんがツイッターに書いた文章が大きな話題になっているとのこと。紹介された文章は大いに共感できるものだったので、その夜うろ覚えの名前や内容でネット上を探し回りました。
春名風花という人(すみません、知りませんでした)のツイッターだったのですが、どうもツイッターって時系列がよく分からないし、順番もよく分からないものの、2019年8月25~26日にアップされたもののようでした。
本当はこうしたニュース記事が分かり易いかも知れませんが、どうしてもご本人の文章を確認したかったので、以下にその部分を引用させて頂きます。
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毎年この時期になると「無理して学校に行かなくて良いんだよ」というツイートがタイムラインに溢れます。一見優しい言葉に見えますし、緊急対応としても間違いではありません。でも、「学校に行かなくてもいいんだよ」と言うメッセージは、本来、いじめている側にかけるべき言葉です。
他人の学ぶ権利を邪魔するのならば、学校には来ないでください。いじめなんてせず、真面目に学校に通いたい人達の迷惑になります。そして、いま現在いじめを受けている皆さん。あなたがたには堂々と学校に行く権利があります。誰にも遠慮せず学ぶ権利があります。その事を絶対に忘れないでください。
学校から追い出されるべき生徒は、いじめを受けた子どもではありません。学校に残さなければならないのはいじめをしていない子どもたちです。「つらいなら学校なんて行かなくて良いんだよ」と、いじめられた側を追い出して、何事もなかったように学校生活を送ろうとする人達を、僕は絶対に許せない。
なので、夏休みの終わりに声を大にして書いておきます。「いじめをするのなら、学校なんて来なくても良いんだよ」
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「学校なんて来なくても良い」なんて甘すぎる。「いじめをするのなら、学校に来るな」と言うべきと思います。
こう言うとよく出てくる反論が、いじめた側の学ぶ権利を奪うのか、という擁護論。
でもいじめた側というのは、すでにいじめられた側の学ぶ権利を奪っています。
人はどんな人であっても様々な権利を持っています。しかし他者の権利を奪ってしまった者は、どんなに「犯罪者にも権利がある」と叫ぼうが、自身の権利を制限されることになります。いじめられた側の学ぶ権利を侵害した者が、自身の学ぶ権利を主張するのは虫が良すぎます。
いじめた側にも事情がある(家庭の事情とか自身もいじめられたとか)という擁護論もよく出てきますが、たとえどんな事情があっても「やってはいけないこと」って間違いなくあるじゃないですか。その「やってはいけないこと」に、どうしていじめは入らないのでしょうか?
子供なんだから、という意見もありますが、たとえ子供だって罪を犯せばまったく何も措置を取らないというわけではないでしょう。何だったら監督責任でいじめた側の親を罰してもいいと思います。
結局、今の社会は「いじめ」というものを犯罪だと思っていないのではないでしょうか。だからいじめた側の権利だの事情だのを持ち出してくる輩も出てくる。
そしてこの問題、「学校」を「会社」のような大人社会に置き換えた場合、より難しい問題になってきます。
会社でいじめがあったら、いじめた側ではなく、いじめられた側が会社を去るのがほぼ100%ではないでしょうか。教育現場である「学校」と利益追求の場である「会社」の違いは承知の上ですが、人の集まりという共通項で考えた場合、そうした大人社会の悪弊が子供の世界にも反映しているように思われます。
最近はようやくハラスメント問題が注目されて「いじめた側」の責任もある程度は追及される可能性も出てきたようです。子供であっても、そもそも「いじめ」というものが犯罪であるという認識が広がってほしいものです。
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