京都市西京区・地蔵院
へろんです。
京都で催されているモシュ印・コケ寺リウムキャンペーン。

以前掲載しました珪春院に続いて訪れたのが、「竹の寺」として知られる地蔵院です。


門を入るとすぐに見事な竹林が。京都市の文化財環境保全地区に指定されているそうです。

ご本尊の地蔵菩薩がお祀りされている本堂。

このお寺は一休宗純(1394~1481;いわゆる「一休さん」)が6歳で出家するまで、母と共に過ごしたと伝えられてるそうで、2017年にこの「一休禅師母子像」が建立されています。

そして「方丈」で展示されているモシュ印とコケ寺リウム。





ここの展示で、モシュ印・コケ寺リウムと同じぐらい目を引いたのが、この窓。

傍の貼り紙には「本日特別公開(通常非公開)」! おお、たまたま訪れたこの日(2019年10月13日)一日だけかどうかは分かりませんが、普段は見られないそうです。
猪目文様(いのめもんよう)、確かにハートっぽいですね。絶好の写真映え素材です(カタカナの軽薄な流行語は使いたくないですな)。

方丈から望む「十六羅漢の庭」。庭に配された石は、十六人の羅漢(仏教における聖者)の修行の姿を表しているのだとか。
さて、地蔵院の御朱印ですが・・・・・・
こちらの地蔵院での御朱印についてというページに、以下のように記されています。
「押し寄せる御朱印希望者に、ただただ終日御朱印書きに追われてしまうこともしばしばです。」
「たとえ、コレクションのためであっても、それをきっかけに、お寺参りをし、信心に目覚めてくださればと、がんばって対応してまいりました。」
「ところが、ここへきて、ご自身で集めたものではない他人様の集められた御朱印帳を持って帰ってしまうという案件が発生し、思いの詰まった御朱印帳を失くされた方に心を切り裂かれる思いをさせてしまうことになってしまいました。」
「禅寺では、そもそも、モノや物事に執着してはいけませんと説いており、執着心を如何に捨てられるかが、禅の核心といえます。」
「この朱印帳が集まれば集まるほどに、執着心が生まれ、それを失くした時には深い悲しみとともに、怒り・恨みという心が発生し、心が軽くなるどころかドロドロの煩悩の闇に突き落とされてしまうという、恐ろしい魔のツールと化しているということに、今更ながら気付いた次第です。」
「地蔵院では、寺として、執着心を煽ることはできません。このようなことになる御朱印対応を止めることに致しました。」
……転売目的の輩についても触れられており、そうした大バカどもに対する気持ちは皆同じだと思います。しかし御朱印を含む「モノや物事への執着心」を突かれると、なかなか辛いものがあります。
仏教においては執着が苦しみの原因であり、これを捨て去るべし、という考えの一つがあることは、何となく知っています。しかし一方でそれを額面通りに、極端に考えると、突き詰めれば人間関係も文明も、社会そのものが成り立たなくなるじゃないか、とも思ったり、新興宗教がそこを悪用して信者から財産を巻き上げたり、ということを考えると、どうすれば良いのか頭を抱えてしまいます。
地蔵院では通常の御朱印対応を中止し、当面は書き置きのみとし、いずれは写経会を開催して読経やお写経を御朱印授与の条件とされる、とのこと。
それが本来の姿であり、昨今の御朱印にまつわる諸問題は最終的にはそうなっていくしかないのかも知れません。
このブログでも時々書いていますが、例えば形式的なことばかりで現実など見ちゃいない働き方改革のように、日本社会はあまりにも大きく振り子が振れて、極端なブームや見境ない反動に翻弄されることが多々あります。
「執着」の問題も、一歩間違うとバカげた「働き方改革」(改革そのものを否定するのではありません。仕事も減らさずに「残業するな、早く帰れ」などと言う、カタチだけを真似たやり方がバカげていると思うのです)と同じことになるように思います。
執着には「悪い執着」も多分にあることは間違いありませんが、一方で「良い執着」「必要な執着」(そんな言い方が正しいか分かりませんが)もあること、うまくコントロールすることが必要なのかも知れません。
ちょうど現代文明が、昔言われた単純な機械文明に突き進むでもなく、全否定して農耕時代に戻ろうでもなく、可能かどうかはともかく「持続可能な発展」を見出そうとしているのと同じような気がします。
そして御朱印も、必要以上には執着しない「程度問題」が必要なのかも知れません。

にほんブログ村
京都で催されているモシュ印・コケ寺リウムキャンペーン。

以前掲載しました珪春院に続いて訪れたのが、「竹の寺」として知られる地蔵院です。


門を入るとすぐに見事な竹林が。京都市の文化財環境保全地区に指定されているそうです。

ご本尊の地蔵菩薩がお祀りされている本堂。

このお寺は一休宗純(1394~1481;いわゆる「一休さん」)が6歳で出家するまで、母と共に過ごしたと伝えられてるそうで、2017年にこの「一休禅師母子像」が建立されています。

そして「方丈」で展示されているモシュ印とコケ寺リウム。





ここの展示で、モシュ印・コケ寺リウムと同じぐらい目を引いたのが、この窓。

傍の貼り紙には「本日特別公開(通常非公開)」! おお、たまたま訪れたこの日(2019年10月13日)一日だけかどうかは分かりませんが、普段は見られないそうです。
猪目文様(いのめもんよう)、確かにハートっぽいですね。絶好の写真映え素材です(カタカナの軽薄な流行語は使いたくないですな)。

方丈から望む「十六羅漢の庭」。庭に配された石は、十六人の羅漢(仏教における聖者)の修行の姿を表しているのだとか。
さて、地蔵院の御朱印ですが・・・・・・
こちらの地蔵院での御朱印についてというページに、以下のように記されています。
「押し寄せる御朱印希望者に、ただただ終日御朱印書きに追われてしまうこともしばしばです。」
「たとえ、コレクションのためであっても、それをきっかけに、お寺参りをし、信心に目覚めてくださればと、がんばって対応してまいりました。」
「ところが、ここへきて、ご自身で集めたものではない他人様の集められた御朱印帳を持って帰ってしまうという案件が発生し、思いの詰まった御朱印帳を失くされた方に心を切り裂かれる思いをさせてしまうことになってしまいました。」
「禅寺では、そもそも、モノや物事に執着してはいけませんと説いており、執着心を如何に捨てられるかが、禅の核心といえます。」
「この朱印帳が集まれば集まるほどに、執着心が生まれ、それを失くした時には深い悲しみとともに、怒り・恨みという心が発生し、心が軽くなるどころかドロドロの煩悩の闇に突き落とされてしまうという、恐ろしい魔のツールと化しているということに、今更ながら気付いた次第です。」
「地蔵院では、寺として、執着心を煽ることはできません。このようなことになる御朱印対応を止めることに致しました。」
……転売目的の輩についても触れられており、そうした大バカどもに対する気持ちは皆同じだと思います。しかし御朱印を含む「モノや物事への執着心」を突かれると、なかなか辛いものがあります。
仏教においては執着が苦しみの原因であり、これを捨て去るべし、という考えの一つがあることは、何となく知っています。しかし一方でそれを額面通りに、極端に考えると、突き詰めれば人間関係も文明も、社会そのものが成り立たなくなるじゃないか、とも思ったり、新興宗教がそこを悪用して信者から財産を巻き上げたり、ということを考えると、どうすれば良いのか頭を抱えてしまいます。
地蔵院では通常の御朱印対応を中止し、当面は書き置きのみとし、いずれは写経会を開催して読経やお写経を御朱印授与の条件とされる、とのこと。
それが本来の姿であり、昨今の御朱印にまつわる諸問題は最終的にはそうなっていくしかないのかも知れません。
このブログでも時々書いていますが、例えば形式的なことばかりで現実など見ちゃいない働き方改革のように、日本社会はあまりにも大きく振り子が振れて、極端なブームや見境ない反動に翻弄されることが多々あります。
「執着」の問題も、一歩間違うとバカげた「働き方改革」(改革そのものを否定するのではありません。仕事も減らさずに「残業するな、早く帰れ」などと言う、カタチだけを真似たやり方がバカげていると思うのです)と同じことになるように思います。
執着には「悪い執着」も多分にあることは間違いありませんが、一方で「良い執着」「必要な執着」(そんな言い方が正しいか分かりませんが)もあること、うまくコントロールすることが必要なのかも知れません。
ちょうど現代文明が、昔言われた単純な機械文明に突き進むでもなく、全否定して農耕時代に戻ろうでもなく、可能かどうかはともかく「持続可能な発展」を見出そうとしているのと同じような気がします。
そして御朱印も、必要以上には執着しない「程度問題」が必要なのかも知れません。

にほんブログ村
スポンサーサイト