追悼・五島勉氏 -希望を指し示した『大予言』
へろんです。
2020年7月21日、かつて『ノストラダムスの大予言』でブームを巻き起こした作家・五島勉(ごとう・べん)氏が、6月16日に90歳で亡くなっていたことが報道され、2年前のインタビュー記事が紹介されていました。
今の若い方はご存知ないかも知れませんが、1973年に発表された『ノストラダムスの大予言』をはじめとする『大予言』シリーズがきっかけで、1999年に世界が滅亡するとノストラダムス(1503~1566)が「予言」した、とまことしやかに言われるようになりました。

「1999年7の月、恐怖の大王が降ってくる……」というヤツですな。「恐怖の大王」は核戦争じゃないかとか、環境破壊や人心荒廃ではないか、といろいろ言われました。
で、ご存知のように1999年に世界は滅亡することもなく、そのためノストラダムスやそれを紹介した五島勉は嘘っぱちだ、というバッシングが沸き上がったわけですが……
当時、「1999年に滅亡するんだったら、未来のことなんかどうでもいいや」という若者も多かったという話も聞きます。
しかし不思議でならないのは、そう言う人たちはどうして当然のごとく「当たる」と考えていたのでしょうか。「当たらないかも知れない」とは思わなかったのでしょうか。なぜ「当たる」「当たらない」を飛び越して「1999年滅亡」だけまるで既定の事実のように考えたのか、私にはさっぱり分かりません。
それだけノストラダムスが有名になりすぎたからだ、という意見があるかもしれません。もう一つのバッシングの構図として、世界滅亡というマイナスイメージを世の中に与えたからだ、という主張もありました。
確かに『大予言』シリーズとはまったく別に、単純に危機感をあおるだけの本や評論家が当時うじゃうじゃと湧いていたことも、紛れもない事実です。
また1998年頃からノストラダムスを取り上げたTV番組が時折放送されましたが、宇宙人だの火山噴火だの、どう見てもメチャクチャな主張をする人を登場させて笑いものにする番組には、(主張する人自身よりも、そういう人を笑いものにするTV局の姿勢に)呆れ果てました。
しかし一方、『大予言』シリーズでは単に滅亡をいうだけにとどまらず、「こういう予言は当たらないようにしなければならない」という強いメッセージが込められていました。その解釈の是非はともかく、予言の中には「別のものが現れれば、予言は無効になるだろう」と解釈できるものもあったそうです。その「別のもの」とはあるいは反戦運動や、環境保護活動や、市民運動などかもしれません。それにより滅亡の危機を回避できる、というわけです。
氏の著作については、一方ではかねてよりその正確さ、出典、解釈などに対して様々な批判が見られるのも確かです。
しかしノストラダムスを一つの材料として、人類を滅亡に導くものとして戦争や環境破壊、社会の退廃などに対して鋭い批判を行ったことは、紛れもない事実です。若い頃から私が感じてきた戦争や環境破壊への怒りは、実に氏の著作が一因といっても過言ではありません。
かなり曖昧な記憶ではありますが、『大予言』シリーズのどれかの注釈に、こんな内容の記述がありました。
「体の不自由な方が電車に乗ってくると、日本では誰も席を譲らなかったり、ひどい時は突き飛ばされたりする。しかしヨーロッパでは、そんな人が電車に乗ってくると、皆がいっせいに席を立って譲るのである。日本の方がよほど滅亡に近いのではないだろうか」
もしかしたら誇張や創作があるかもしれません。しかしこの文章で言わんとしていることは明らかではないでしょうか。
正直、席を譲るというのは多少なりとも照れやためらいを伴いがちです。私もそうですが、それでもこれまでに数少ないながらも席を譲った時には、この文章が頭にありました。それは滅亡が怖いからとかではなく、やっぱり譲るのは当然なんだ、正しいことなんだ、という気持ちになれたからです。
こういう訴え、投げかけを世の中にしてきた点で、例えば登場人物が無意味に殺しあったりするような、くだらないを通り越して弊害の目立つフィクションなんぞよりもはるかに優れていたと感じます。
予言に限らず、滅亡の危機はかねてより現実のものとして存在していました(いや、今でもあります)。その危機に対して、「そんなものは当たらないようにしなければならない」、そのためには「別のもの」が必要である、「別のもの」があれば回避できる……それは今の時代で言うならば温暖化対策、持続可能な社会、地道な市民運動、その他にも挙げられるでしょう。そうしたものが必要である、ということを示した点で、『大予言』シリーズは希望を指し示した存在であった、と思っています。
2020年7月21日、かつて『ノストラダムスの大予言』でブームを巻き起こした作家・五島勉(ごとう・べん)氏が、6月16日に90歳で亡くなっていたことが報道され、2年前のインタビュー記事が紹介されていました。
今の若い方はご存知ないかも知れませんが、1973年に発表された『ノストラダムスの大予言』をはじめとする『大予言』シリーズがきっかけで、1999年に世界が滅亡するとノストラダムス(1503~1566)が「予言」した、とまことしやかに言われるようになりました。

「1999年7の月、恐怖の大王が降ってくる……」というヤツですな。「恐怖の大王」は核戦争じゃないかとか、環境破壊や人心荒廃ではないか、といろいろ言われました。
で、ご存知のように1999年に世界は滅亡することもなく、そのためノストラダムスやそれを紹介した五島勉は嘘っぱちだ、というバッシングが沸き上がったわけですが……
当時、「1999年に滅亡するんだったら、未来のことなんかどうでもいいや」という若者も多かったという話も聞きます。
しかし不思議でならないのは、そう言う人たちはどうして当然のごとく「当たる」と考えていたのでしょうか。「当たらないかも知れない」とは思わなかったのでしょうか。なぜ「当たる」「当たらない」を飛び越して「1999年滅亡」だけまるで既定の事実のように考えたのか、私にはさっぱり分かりません。
それだけノストラダムスが有名になりすぎたからだ、という意見があるかもしれません。もう一つのバッシングの構図として、世界滅亡というマイナスイメージを世の中に与えたからだ、という主張もありました。
確かに『大予言』シリーズとはまったく別に、単純に危機感をあおるだけの本や評論家が当時うじゃうじゃと湧いていたことも、紛れもない事実です。
また1998年頃からノストラダムスを取り上げたTV番組が時折放送されましたが、宇宙人だの火山噴火だの、どう見てもメチャクチャな主張をする人を登場させて笑いものにする番組には、(主張する人自身よりも、そういう人を笑いものにするTV局の姿勢に)呆れ果てました。
しかし一方、『大予言』シリーズでは単に滅亡をいうだけにとどまらず、「こういう予言は当たらないようにしなければならない」という強いメッセージが込められていました。その解釈の是非はともかく、予言の中には「別のものが現れれば、予言は無効になるだろう」と解釈できるものもあったそうです。その「別のもの」とはあるいは反戦運動や、環境保護活動や、市民運動などかもしれません。それにより滅亡の危機を回避できる、というわけです。
氏の著作については、一方ではかねてよりその正確さ、出典、解釈などに対して様々な批判が見られるのも確かです。
しかしノストラダムスを一つの材料として、人類を滅亡に導くものとして戦争や環境破壊、社会の退廃などに対して鋭い批判を行ったことは、紛れもない事実です。若い頃から私が感じてきた戦争や環境破壊への怒りは、実に氏の著作が一因といっても過言ではありません。
かなり曖昧な記憶ではありますが、『大予言』シリーズのどれかの注釈に、こんな内容の記述がありました。
「体の不自由な方が電車に乗ってくると、日本では誰も席を譲らなかったり、ひどい時は突き飛ばされたりする。しかしヨーロッパでは、そんな人が電車に乗ってくると、皆がいっせいに席を立って譲るのである。日本の方がよほど滅亡に近いのではないだろうか」
もしかしたら誇張や創作があるかもしれません。しかしこの文章で言わんとしていることは明らかではないでしょうか。
正直、席を譲るというのは多少なりとも照れやためらいを伴いがちです。私もそうですが、それでもこれまでに数少ないながらも席を譲った時には、この文章が頭にありました。それは滅亡が怖いからとかではなく、やっぱり譲るのは当然なんだ、正しいことなんだ、という気持ちになれたからです。
こういう訴え、投げかけを世の中にしてきた点で、例えば登場人物が無意味に殺しあったりするような、くだらないを通り越して弊害の目立つフィクションなんぞよりもはるかに優れていたと感じます。
予言に限らず、滅亡の危機はかねてより現実のものとして存在していました(いや、今でもあります)。その危機に対して、「そんなものは当たらないようにしなければならない」、そのためには「別のもの」が必要である、「別のもの」があれば回避できる……それは今の時代で言うならば温暖化対策、持続可能な社会、地道な市民運動、その他にも挙げられるでしょう。そうしたものが必要である、ということを示した点で、『大予言』シリーズは希望を指し示した存在であった、と思っています。
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