2019年はブレードランナーの夢を見るか?
へろんです。
喪中のため新年のご挨拶は控えさせていただきますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします m(_ _)m
さて2019年といえば、映画「ブレードランナー」(1982年、アメリカ)の設定年。
この作品では、環境破壊により人類の大半は宇宙の植民地に移住し、酸性雨が降りしきる荒廃したロサンゼルスが舞台になっています。
作品制作時の現在(1982年当時)よりも外国文化が流入することの象徴なのでしょう、あちこちに日本語の看板があったりしましたが、これは監督のリドリー・スコットが来日した際に、新宿・歌舞伎町の街並みが印象深かったからだそうです。特にインパクトがあったのが、高層ビルに映し出される巨大な広告スクリーンに「強力わかもと」! 何でも実在するわかもと製薬には無許可だったのだとか……。
この荒廃した未来都市のイメージはいろいろな作品に影響を与えており、麻宮騎亜「サイレントメビウス」でもよく似たイメージの東京が描かれています。「ブレードランナーにはリスペクトがある」と作者ご本人も語っているのだとか。
中でも思い出すのが、NHKが1985年に放送した単発ドラマ「オアシスを求めて」。2087年を舞台にした重厚なSFで、かのNHKがここまで真正面にSFを取り上げたという点で、私にとっては特筆に価すべき作品です。荒廃した地球環境からスペースコロニーへの移住を進めようとする設定で、スペースコロニーと聞くとすぐ「ガンダムの影響か?」なんて言う失礼な感想も見かけましたが、それは逆でしょう! ガンダムというアニメファン以外は認知度の低いものを持ち出してこずとも、スペースコロニーは現実的な可能性のあるものとして、すでに様々に議論されています。
なお、「ブレードランナー」の当初の時代設定は2020年であったとも言われており、Wikipediaには「英語において「Twenty-Twenty」が視力検査で両目とも2.0であることを表す言葉でもあるため、混同を避けるため、2019年に舞台が変更された」とあります。ただここには注釈がないので、出所は分からないですね。
原作はフィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick, 1928~1982)のSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Do Androids Dream of Electric Sheep?、1968)。
このタイトルは非常に有名で、「○○は○○の夢を見るか」という文があれば、SFファンならまず誰でも「ああ、あれのもじりだな」とピンときます。
実は本文のタイトルもそのパターンです(^^)
原作の舞台は1992年のサンフランシスコ。1992年! もう27年前のことですね。映画「ブレードランナー」はこの原作とは時代設定だけでなく展開や結末が大きく異なり、ほとんど別物のようです。ちなみにディックは「ブレードランナー」公開直前に亡くなり、完成版を観ることはなかったのだそうです。
現実の2019年は地球環境がまだそこまで壊滅してはいないと言えるかも知れませんが、年々ひどくなる異常気象や自然災害の多発など、いつどうなるか分かったものではありません。環境対策や温暖化対策がより進んでいくよう願わずにはいられません。
「ブレードランナー」で登場するレプリカント(原作のアンドロイド)は人間とほとんど区別ができず、人工の記憶によって自身を人間だと信じ込んでいる者もいます。しかし唯一、感情移入だけができず、「フォークト=カンプフ検査」という一種の嘘発見器のようなテストによって判別されるのですが……。
ある基準があって、その基準から外れると有無を言わせず抹殺される世界。実際には基準には例外も曖昧さもあり、いわゆるグレーゾーンもあるはずなのに、出される結論は全か無かの二者択一。現実社会でもそんな不条理は掃いて捨てるほどあります。
そしてもう一つ気になるのが、共感能力がないというレプリカントの特徴。21世紀の現代、レプリカントはいませんが、共感能力がないレプリカントのような人間が増えているような気がします。
(今の職場って、ある意味で他社や他部署や他人の批判を繰り広げることが仕事のような側面があるんですけどね……他者を平然と批判する連中って、共感能力がないんじゃなかろうか、と思うことがよくあるんですね)
現実の2019年、酸性雨は降っていませんが、人間はレプリカントっぽくならないよう、より人間らしくありたいものですね。
原作者ディックについてのWikipediaのページによると、彼の死後にファンにより彼の姿に似せたアンドロイドが作製されましたが、2006年に頭部を紛失、未だに見つかっていないのだとか。うああ、これだけで何か作品が一つできそうなエピソード……。
喪中のため新年のご挨拶は控えさせていただきますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします m(_ _)m
さて2019年といえば、映画「ブレードランナー」(1982年、アメリカ)の設定年。
この作品では、環境破壊により人類の大半は宇宙の植民地に移住し、酸性雨が降りしきる荒廃したロサンゼルスが舞台になっています。
作品制作時の現在(1982年当時)よりも外国文化が流入することの象徴なのでしょう、あちこちに日本語の看板があったりしましたが、これは監督のリドリー・スコットが来日した際に、新宿・歌舞伎町の街並みが印象深かったからだそうです。特にインパクトがあったのが、高層ビルに映し出される巨大な広告スクリーンに「強力わかもと」! 何でも実在するわかもと製薬には無許可だったのだとか……。
この荒廃した未来都市のイメージはいろいろな作品に影響を与えており、麻宮騎亜「サイレントメビウス」でもよく似たイメージの東京が描かれています。「ブレードランナーにはリスペクトがある」と作者ご本人も語っているのだとか。
中でも思い出すのが、NHKが1985年に放送した単発ドラマ「オアシスを求めて」。2087年を舞台にした重厚なSFで、かのNHKがここまで真正面にSFを取り上げたという点で、私にとっては特筆に価すべき作品です。荒廃した地球環境からスペースコロニーへの移住を進めようとする設定で、スペースコロニーと聞くとすぐ「ガンダムの影響か?」なんて言う失礼な感想も見かけましたが、それは逆でしょう! ガンダムというアニメファン以外は認知度の低いものを持ち出してこずとも、スペースコロニーは現実的な可能性のあるものとして、すでに様々に議論されています。
なお、「ブレードランナー」の当初の時代設定は2020年であったとも言われており、Wikipediaには「英語において「Twenty-Twenty」が視力検査で両目とも2.0であることを表す言葉でもあるため、混同を避けるため、2019年に舞台が変更された」とあります。ただここには注釈がないので、出所は分からないですね。
原作はフィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick, 1928~1982)のSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(Do Androids Dream of Electric Sheep?、1968)。
このタイトルは非常に有名で、「○○は○○の夢を見るか」という文があれば、SFファンならまず誰でも「ああ、あれのもじりだな」とピンときます。
実は本文のタイトルもそのパターンです(^^)
原作の舞台は1992年のサンフランシスコ。1992年! もう27年前のことですね。映画「ブレードランナー」はこの原作とは時代設定だけでなく展開や結末が大きく異なり、ほとんど別物のようです。ちなみにディックは「ブレードランナー」公開直前に亡くなり、完成版を観ることはなかったのだそうです。
現実の2019年は地球環境がまだそこまで壊滅してはいないと言えるかも知れませんが、年々ひどくなる異常気象や自然災害の多発など、いつどうなるか分かったものではありません。環境対策や温暖化対策がより進んでいくよう願わずにはいられません。
「ブレードランナー」で登場するレプリカント(原作のアンドロイド)は人間とほとんど区別ができず、人工の記憶によって自身を人間だと信じ込んでいる者もいます。しかし唯一、感情移入だけができず、「フォークト=カンプフ検査」という一種の嘘発見器のようなテストによって判別されるのですが……。
ある基準があって、その基準から外れると有無を言わせず抹殺される世界。実際には基準には例外も曖昧さもあり、いわゆるグレーゾーンもあるはずなのに、出される結論は全か無かの二者択一。現実社会でもそんな不条理は掃いて捨てるほどあります。
そしてもう一つ気になるのが、共感能力がないというレプリカントの特徴。21世紀の現代、レプリカントはいませんが、共感能力がないレプリカントのような人間が増えているような気がします。
(今の職場って、ある意味で他社や他部署や他人の批判を繰り広げることが仕事のような側面があるんですけどね……他者を平然と批判する連中って、共感能力がないんじゃなかろうか、と思うことがよくあるんですね)
現実の2019年、酸性雨は降っていませんが、人間はレプリカントっぽくならないよう、より人間らしくありたいものですね。
原作者ディックについてのWikipediaのページによると、彼の死後にファンにより彼の姿に似せたアンドロイドが作製されましたが、2006年に頭部を紛失、未だに見つかっていないのだとか。うああ、これだけで何か作品が一つできそうなエピソード……。
スポンサーサイト