明日は明日の雨が降る
へろんです。
うちの会社は8時30分から5時までで、従来は6時、7時頃まではわざわざ残業申請しなくても、残務処理や明日の準備で何やかやと忙しかった。
それがどうしたことか、半年ぐらい前から、5時を過ぎるといきなり仕事をするな、とっとと帰れ、と言い出し始めた。
別に好き好んで遅くまでいるわけではないし、帰れるものならとっとと帰りたい。
だけど、やることがあるからその分時間がかかってるんだ。
仕事の量が変わらないのに、早く終われ、だと??
要するに仕事の密度を上げろ、ということだ。
これまでさぼっていたわけでもないのに、同じだけの時間内にさらに仕事を詰め込め、というわけだ。
今日予定していた分がどうしても5時までに終わらなければ、「すみませんが○○をやらなければならないので残業させてください」と申し出る。
その時上の方がいう言葉の一つ。部下対応マニュアルでもあるのだろうか、複数から同じことを言われたことがある。
「それは今日中でないといけないのか? 明日ではだめなのか?」
そりゃあ明日でもできるだろう。
だけど、明日は明日の雨が降る。
今日降り注いだ仕事という名の雨水を、今日中にはいておかなければ、明日にはまた新たな雨が降り注ぎ、いずれは決壊するだろう。

昨今流行の「働き方改革」によれば、「長時間労働」を抑制して「生産性の向上」を目指すことが求められるらしい。
確かに一月に何十時間も過酷な残業を強いられている会社や業界で改革を目指すことは、大きな意義があるだろう。だけど、それと5分10分過ぎたからと言って仕事をやめろ、とっとと帰れ、と口うるさく言うのとは、何か違うのではないか。
時間が過ぎたから仕事をやめろと言ったって、残った仕事は誰がやってくれるのか。結局こっちがやらなきゃいけないじゃないか。明日が余計にしんどくなるだけじゃないか。
「働き方改革」の背景には「深刻な労働力不足」があるという。労働力が不足しているのだから、今抱えている仕事を誰かにやってもらったり分担してもらうことはできないということになる。実際、今の職場は人手不足だ。昨年まで二人でやってた内容を一人でやってるので、余計に定時で終わることなんてできるわけがない。
あとは分かった風な顔をして「効率化」を言う輩もいる。効率化なんてできることはもうやっている。そもそも、下っぱの仕事の成果のみを見て、その過程でどれほどの手間がかかっているのか知りもしないのに、どこを効率化しろと言うのだ。やれるものなら自分でやってみてほしい。
最近の嫌なCMの一つに、メ○シャキがある。メ○シャキを飲んだサラリーマンが、机の両側に積み上げられた書類をものすごい勢いで処理して、「できました」と去っていくのだ。
要するに、5時までに仕事を終わらせるために、そんな風にしろ、と言ってるのではないか、今の「働き方改革」は。
眉村卓の「C席の客」(1973年)はサラリーマンの習性を皮肉ったり悲哀を描いたショートショート集だが、その中にライバル会社に勝つために薬物でどんどん脳を活性化させていき、その代償として、薬の切れたアフターファイブは反動でだらーっと呆けてしまうサラリーマンの話がある。そんな世の中にだんだん近づいているような気がする。

かつて日本では「ゆとり教育」がもてはやされた時代があったが、それが行き過ぎたからと言って批判や見直しが議論され、「脱ゆとり教育」なんてものまで言い出されるようになった。
またその昔「24時間働けますか」なんてコマーシャルが流行った時代もあったが、実際には誰もそんなに極端に長時間働きたいなんて思わない。そんな極端な風潮の揺り戻しの結果として「働き方改革」にまで行きついたのだろうが、その「働き方改革」も、いずれまた行き過ぎたからと言って揺り戻しの時代が来るのではなかろうか。
どうしてこの国は何か言い出すと極端に一方に偏り、そして振り子のようにまた大きく反対側へ振れるようなことを繰り返すのだろうか。

降り続く仕事という雨の向こうに、雲の切れ間はあるだろうか。虹はかかっているだろうか。
あるかも知れないが、頭上からは明日も仕事の雨が降り続く。足元にはこれまでに降った雨水が溜まっている。なのに5時が近づいてくる。この水をはかせる時間は、一体いつになったら取れるのだろうか。
すみません、今回は愚痴ってしまいましたm(_ _)m
うちの会社は8時30分から5時までで、従来は6時、7時頃まではわざわざ残業申請しなくても、残務処理や明日の準備で何やかやと忙しかった。
それがどうしたことか、半年ぐらい前から、5時を過ぎるといきなり仕事をするな、とっとと帰れ、と言い出し始めた。
別に好き好んで遅くまでいるわけではないし、帰れるものならとっとと帰りたい。
だけど、やることがあるからその分時間がかかってるんだ。
仕事の量が変わらないのに、早く終われ、だと??
要するに仕事の密度を上げろ、ということだ。
これまでさぼっていたわけでもないのに、同じだけの時間内にさらに仕事を詰め込め、というわけだ。
今日予定していた分がどうしても5時までに終わらなければ、「すみませんが○○をやらなければならないので残業させてください」と申し出る。
その時上の方がいう言葉の一つ。部下対応マニュアルでもあるのだろうか、複数から同じことを言われたことがある。
「それは今日中でないといけないのか? 明日ではだめなのか?」
そりゃあ明日でもできるだろう。
だけど、明日は明日の雨が降る。
今日降り注いだ仕事という名の雨水を、今日中にはいておかなければ、明日にはまた新たな雨が降り注ぎ、いずれは決壊するだろう。

昨今流行の「働き方改革」によれば、「長時間労働」を抑制して「生産性の向上」を目指すことが求められるらしい。
確かに一月に何十時間も過酷な残業を強いられている会社や業界で改革を目指すことは、大きな意義があるだろう。だけど、それと5分10分過ぎたからと言って仕事をやめろ、とっとと帰れ、と口うるさく言うのとは、何か違うのではないか。
時間が過ぎたから仕事をやめろと言ったって、残った仕事は誰がやってくれるのか。結局こっちがやらなきゃいけないじゃないか。明日が余計にしんどくなるだけじゃないか。
「働き方改革」の背景には「深刻な労働力不足」があるという。労働力が不足しているのだから、今抱えている仕事を誰かにやってもらったり分担してもらうことはできないということになる。実際、今の職場は人手不足だ。昨年まで二人でやってた内容を一人でやってるので、余計に定時で終わることなんてできるわけがない。
あとは分かった風な顔をして「効率化」を言う輩もいる。効率化なんてできることはもうやっている。そもそも、下っぱの仕事の成果のみを見て、その過程でどれほどの手間がかかっているのか知りもしないのに、どこを効率化しろと言うのだ。やれるものなら自分でやってみてほしい。
最近の嫌なCMの一つに、メ○シャキがある。メ○シャキを飲んだサラリーマンが、机の両側に積み上げられた書類をものすごい勢いで処理して、「できました」と去っていくのだ。
要するに、5時までに仕事を終わらせるために、そんな風にしろ、と言ってるのではないか、今の「働き方改革」は。
眉村卓の「C席の客」(1973年)はサラリーマンの習性を皮肉ったり悲哀を描いたショートショート集だが、その中にライバル会社に勝つために薬物でどんどん脳を活性化させていき、その代償として、薬の切れたアフターファイブは反動でだらーっと呆けてしまうサラリーマンの話がある。そんな世の中にだんだん近づいているような気がする。

かつて日本では「ゆとり教育」がもてはやされた時代があったが、それが行き過ぎたからと言って批判や見直しが議論され、「脱ゆとり教育」なんてものまで言い出されるようになった。
またその昔「24時間働けますか」なんてコマーシャルが流行った時代もあったが、実際には誰もそんなに極端に長時間働きたいなんて思わない。そんな極端な風潮の揺り戻しの結果として「働き方改革」にまで行きついたのだろうが、その「働き方改革」も、いずれまた行き過ぎたからと言って揺り戻しの時代が来るのではなかろうか。
どうしてこの国は何か言い出すと極端に一方に偏り、そして振り子のようにまた大きく反対側へ振れるようなことを繰り返すのだろうか。

降り続く仕事という雨の向こうに、雲の切れ間はあるだろうか。虹はかかっているだろうか。
あるかも知れないが、頭上からは明日も仕事の雨が降り続く。足元にはこれまでに降った雨水が溜まっている。なのに5時が近づいてくる。この水をはかせる時間は、一体いつになったら取れるのだろうか。
すみません、今回は愚痴ってしまいましたm(_ _)m
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